新宿スポセン前の桜がフライングで咲いちゃうワケと「新宿」の地名の由来

2023/03/23

犬以外の話 東京都

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 タイトル長いですが、フライング桜と新宿の地名にはちょっと関係があるのですよ。

満開。ちょい散り始めてるくらい。

そもそも新宿スポセンって

「新宿スポーツセンター」。旧名称、新宿区立総合体育館と名前の通りの施設ですが、この施設が都立戸山公園(の大久保地区)の中にあります。

戸山公園は、西側の大久保地区と東側の箱根山地区に分かれているちょっと変わった公園。それぞれの地区は歩いて5分くらいで行き来できますが、隣接しておらず完全に分かれています。箱根山地区には、その名前の「箱根山」があるエリア。箱根山は築山(人造の山)ですが山手線内で一番高い地点だそうな(標高44.6m)。登ると戸山公園のサービスセンターで「登頂証明書」がもらえるそうです。何度も登っててもらったことないけど。

いきなり話が脱線しましたがこの戸山公園、ししまる家もちょいちょい利用させてもらってる公園で、サクラの季節にはお花見も楽しめるステキな公園です。

そんな具合に公園には、どちらの地区にもサクラがたくさん咲くワケですが。

スポセン前にあるサクラだけ毎年フライングして咲く

タイトルにある通り、スポセン前に植えてある2本の桜の木だけ、毎年周りの桜よりも一足早く咲くのです。その理由は、まぁあっさりと「桜の種類が違うから」というだけなんですが、それだと地名の由来とか出ないままこの話もう終わっちゃうのでもう少し掘り下げます。

この2本の桜は、いわゆる「サクラ」の代表格であるソメイヨシノ(染井吉野)ではなく、ヒガンザクラ(彼岸桜)の仲間でタカトオコヒガン(高遠小彼岸)という桜です。

ヒガンザクラは、お彼岸、春と秋それぞれ春分の日と秋分の日の前後3日間のうち、春の彼岸の頃に咲くのでその名前がついたとされていて、ソメイヨシノよりも咲く時期が少し早いのです。冒頭の写真は3月19日でまさに春彼岸の最中(2023年の春分の日は3月21日)。

先に書いたとおり、スポセン前のサクラが毎年フライングして咲くのは、このサクラが周りのソメイヨシノとは違うタカトオコヒガンだから、ということなのですが、それがいったいなんで新宿の地名と関係するのかというと。

タカトオコヒガン

タカトオコヒガン(高遠小彼岸)は、高遠町という長野県にあった町の名前をとった桜で、県内の高遠城址公園にある1,500本のタカトオコヒガンは長野県の天然記念物にも指定されています。その長野の桜がなんで新宿区の公園に植えられているかというと、新宿と高遠には江戸時代からのご縁があるからなのです。

具体的には、このスポセン前のタカトオコヒガンは「新宿区・高遠町友好提携15周年記念植樹」として平成13年に植えられたもの。その後の平成18年に高遠町は合併で伊那市となり、行政区分の市区町村としては高遠町はなくなりましたが、現在も新宿区と伊那市は友好都市として提携しています。けど江戸時代からご縁があるのに友好提携したのは昭和末期なのね。

高遠藩主内藤氏

いまは「長野県伊那市」となった高遠町は、かつては「長野県上伊那郡高遠町」で、さらに遡ると「信濃国伊那郡高遠藩」だったそうで、この高遠藩が廃藩置県でなくなるまでの最後の藩主だったのが内藤氏

こちらの内藤さん、もともと愛知は岡崎の出だったそうですが、高遠藩主となる内藤家の初代はキヨナリ(清成)さんといって徳川家康から「がんばったで賞」のごほうびとして江戸に広ーい土地をもらいます。内藤キヨナリさんがもらったこの江戸の土地の場所が、だいたい今の新宿区。いまも新宿区には「内藤町(ないとうまち)」という住所がありまして、日本で国が管理している3つの「国民公園」のひとつ、新宿御苑の所在地はこの新宿区内藤町ですが、新宿御苑はもともとこの内藤家のお屋敷の跡地なのです。

その内藤家、キヨナリさんから数えて6代目のキヨカズ(清枚)さんの時に、高遠藩の藩主となります。新宿という町と高遠という町は、内藤さん家を通じてご縁があったワケです。

で、こっからが「新宿」という地名の由来の話になるのですが。

五街道と江戸四宿

また江戸時代の話です。

当時から幹線道路の起点は江戸の日本橋であり、ここから現在の神奈川、静岡、愛知を通る東海道、埼玉、茨城、栃木を通る日光街道、日光街道から宇都宮で分岐して福島に伸びる奥州街道、埼玉、群馬、長野、岐阜を通る中山道、八王子、神奈川、山梨を通る甲州街道の5つの道を五街道といいました。

鉄道も自動車もない時代ですから、交通は歩きか馬か。一日に進める距離にも限りがあるので、それぞれの街道にはある程度の間隔で休む場所がいくつも作られました。この休憩地点・宿泊所となった場所を宿場(しゅくば)といい、宿場ができた町を宿場町(しゅくばまち)と言いました。よく聞く「東海道五十三次」の「五十三次」とは、東海道という街道に沿った53ヶ所の宿場のことです。

五街道のうち、日光街道と奥州街道は途中(栃木の宇都宮)まで同じ道なので、江戸の日本橋からは大きな道が4本、それぞれ違う方向へ伸びていることになります。日本橋を出発した旅人がえっほえっほと進んでいって、4本それぞれの道で最初に到着する宿場を、まとめて江戸四宿と呼びました。「日本橋から一番近い宿場」ということは、逆からみたら「江戸に一番近い宿場」ですから、江戸四宿は江戸の玄関口だったワケです。

その江戸四宿、それぞれ、東海道は品川宿で現在の品川区、日光街道(兼、奥州街道)は千住宿で現在の足立区、中山道は板橋宿で現在の板橋区にあり、甲州街道は内藤新宿といって現在の新宿区にその宿場がありました。この「内藤新宿」の「新宿」が、いまの新宿という地名の大元です。

内藤新宿

江戸四宿のうち、なぜ内藤新宿だけが「新」とついているのか。さらに、品川宿、千住宿、板橋宿は地名から取られているのに、なぜ内藤新宿だけ家名からきているのか。

これは単純に、内藤新宿が実際に「新しく作った宿場」だったからです。

内藤新宿という宿場ができる以前は、甲州街道の最初の宿場は高井戸宿という現在の杉並区にある宿場でした。この高井戸宿、ほかの3つの品川宿、千住宿、板橋宿と比べて、日本橋から遠かった。他の3ヶ所よりも倍くらい日本橋から距離がありました。なので、他の道に比べて甲州街道の往来は不便でしんどかったのです。

そこで新しく宿場を作ろうという話になって、日本橋から他の四宿と同じくらいの距離(だいたい8キロ以内)で甲州街道方面ということで、今の新宿区あたりが選ばれました。もっとも、ちゃんとした宿場ができるより前に、その近辺は休憩所として機能していたそうで、内藤家の領地であることから「内藤宿」と既に呼ばれていたそうです。アダ名みたいなモンですね(とはいえ幕府に公認されてたそうですが)。そこから改めてちゃんとした新しい宿場を作る際に、「内藤新宿」という名前になった、とのこと。

江戸が「東京」になって内藤新宿も「新宿」になるんだけど……

265年続いた江戸幕府の「江戸」は、明治維新と廃藩置県で「東京」に変わりました。「内藤新宿」はどうなったかというと、しばらくの間は「内藤新宿」のままでした。

1869年(明治2年)、内藤新宿の町地のうちのいくつかが「内藤新宿一丁目」から「内藤新宿三丁目」に変わります。それ以外にも「内藤新宿○○町」という地名はいくつもありました。

初期のすったもんだの末、1878年(明治11年)、東京15区新生。と同時に東京府下近郊6郡も発足。この時点で内藤新宿の町地は東京府南豊島郡に属します。15区には入れてもらえずちょっと場末な扱いだったんですね。とはいっても、南豊島郡の郡役所は内藤新宿二丁目に設置されたそうで、さらにいえば、この南豊島郡自体、いまでいう渋谷区と新宿区の一部ですからぜんぜん場末じゃなくなるのですが、ともあれ当時はそうだった。ちなみに、現在の新宿区の一部である四谷エリアと牛込エリアは、この時点でそれぞれ「四谷区」「牛込区」と15区に仲間入りしてます。

11年経って1889年(明治22年)、東京市誕生。先にあった東京15区がそのまままるっと東京市になり、「東京府東京市○○区」という具合に。そして内藤新宿は、一丁目から三丁目のほかたくさんあった町地がごそっと合併して内藤新宿町(ないとうしんじゅくまち)に。まだ区には入っていないので「東京府南豊島郡内藤新宿町大字内藤新宿一丁目」てな様子。

2年後の1891年(明治24年)、内藤新宿一丁目の一部が四谷区に編入され、四谷内藤町(よつやないとうまち)が誕生。あれ「新宿」の2文字消えちゃったじゃん。いやいや、四谷区の四谷内藤町になったのは内藤新宿のエリアのごく一部。南豊島郡の内藤新宿町はこの時点でもまだあります。そしてこの四谷内藤町こそ、現在の新宿区内藤町の原型。江戸時代から現代にまで内藤家のお名前がこの地に残ります。ちなみに、四谷区の区役所は最初の設置から2回引っ越して、最後はこの内藤町の1番地(当時)にあったそうで、現在、新宿区の四谷区民センターになっています。すごいぞ内藤町。

さてさて続いて5年後、1896年(明治29年)。内藤新宿町が属していた南豊島郡が東多摩郡と合併、南豊島のと東多摩の多摩をくっつけて豊多摩郡となり、南豊島郡廃止。東京府の6郡は5郡に減り、内藤新宿町も豊多摩郡内藤新宿町に変わります。内藤新宿二丁目にあった南豊島の郡役所も、今度は豊多摩の郡役所として淀橋町に。ちなみに東多摩郡は現在の中野区、杉並区にあたるので、合併してできた豊多摩郡は現在の中野区、杉並区、渋谷区と、新宿区の一部にあたります。

こんな具合で、「内藤新宿」の名前は行政区分上しばらく残り続けていました。

そのまま時は流れ24年後の1920年、もう明治も終わって大正9年。豊多摩郡内藤新宿町、四谷区に編入。区に編入したことで、市町村としての内藤新宿町はここで消滅します。グッバイ内藤新宿町。そして四谷区編入と同時に新たな区画が設置され、四谷区新宿一丁目、二丁目、三丁目が爆誕。とうとう、行政区分上で「新宿」二文字の地名が登場しました。ハロー新宿!

その後、1932年(昭和7年)に府下5郡が東京市に編入され、5郡は消滅。新たに20区が新設され東京35区に。この時、豊多摩郡の郡役所があった淀橋町を含む淀橋地区一帯が合併して淀橋区が誕生します。そして戦時中の1943年(昭和18年)に東京市は東京府と統合して35区のまま東京都となり、戦後1947年(昭和22年)、35区から現在の23区に再編されます。15区時代からあった四谷区牛込区と、35区時代で登場した淀橋区の3区を合併し、現在の新宿区となったのでした。いやー長かったね新宿の歴史!ついでの小ネタですが、35区からの再編、正しくは22区に再編されたあと、もう1つの区が新設されて23区になりました。さて最後の1区とははどこでしょう。

誰が「新宿」にした?

つらつらと書いてきた「新宿」の名前の由来。「内藤新宿」がそのルーツであるということは新宿区の公式サイトにも載っているガチ情報で、「新宿 由来」でググればすぐ見つかる程度にそこそこ有名な話です。

では、なぜ、「内藤新宿」が「新宿」になったのか?

江戸四宿のくだりで書いたとおり、「宿」はもともと固有の名称ではなく「宿場」を表す一般的な呼称でした。「新宿」にしても同じで、実際に江戸四宿のひとつである千住宿では、大きくなった宿場を区分けして「本宿・新宿・南宿」と呼んでいたそうです。建物でいうところの「本館・新館・南館」みたいなカンジですね。「ホテル・ニュー内藤」が「ホテル・ニュー」になっちゃったのはなんでなのか(ひとつの建物じゃないから「内藤ニュータウン」が「ニュータウン」になった、のほうが近いか)。

ここから先は筆者である店長の憶測が多分に混じりますのであらかじめご了承をば。

単純に「長いから略したくなる」のは古今東西よくある話。既に江戸時代から、内藤新宿を「新宿」と呼ぶ風潮はあったらしいです。それってたぶん現代でギャル達が109をマルキューって呼ぶみたいなノリだったんでないかなと。つまりアダ名。みんな「新宿」といえば内藤新宿のことだと通じていたけど、一方で公に認められた正しい名前はあくまで「内藤新宿」だった。だから、正式名称である「内藤新宿」は、公の行政区分として明治の時代を通して大正まで残り続けたんじゃないでしょうか。

そして1920年(大正9年)の四谷区編入で「新宿」という地名が出てきますが、それよりももっとずっと前に、「新宿」という名称をほぼ公にして使った存在が現れます。

新宿駅です。

新宿駅は1885年(明治18年)に現在の山手線の前身となる品川線の駅として、日本鉄道株式会社によって作られます。日本初の民営の鉄道会社、いまでいう私鉄だったのですが、実態として半官半民の組織だったようです。明治という時代や鉄道敷設という大事業の性質を考えればもっともでしょう。

Webで調べていると、この新宿駅が設立当初は「内藤新宿駅」という名前でその2年後に名前が変わった、とか、この説が間違いで新宿駅は最初から新宿駅だった、とかって情報が見つかりました。この真偽はわかりませんが、さらに4年後の1889年(明治22年)、甲武鉄道という事業者によって現在の中央線にあたる新宿-立川間が開業されます。この甲武鉄道にまつわる画像で1890年(明治23年)に「新宿停車場」と書かれた出版物があったので、遅くともこの頃には、「新宿」という名前が、少なくとも通称として使われていたようです。

新宿駅の開業当初から、正式名称は「内藤新宿駅」だったのに通称の新宿駅が早くからまかり通っていた、ということもあり得る気がします。単純に文字数が少ないから。「宇都宮」駅ができるまで、他の駅はみんな2文字だったみたいだし。貨物駅で「恵比寿」と「秋葉原」があったみたいだけど。

Web上でもう一つ、明治期に公で「新宿」という呼称を使ったかと思われる情報として、新宿御苑の前身となる「内藤新宿試験場」が、1879年(明治12年)に宮内省所管の「新宿植物御苑」となった、というものがありました。これが事実なら、官公庁の所管施設の名称だし、駅名よりも先にこちらが、公で初出の「新宿」になるのかな、と思ったんですが、この情報がちょっと怪しくてですね……

前述の通り新宿御苑は現在も国の管轄で、環境省が管理しているのですが、この環境省のサイトの中でも、この植物御苑について、「植物御苑」と「新宿」の二文字を省いて書いている部分と、「新宿植物御苑」と新宿を付けて書いている部分と、表記ブレがあるんです。決定的な情報は見つけられなかったんですが、どちらもあり得るとしたら、個人的には(新宿のつかない)「植物御苑」だったんじゃないかなーと思います。「きっとそーだ!」というほど自信はないんですが……

理由としては、明治12年の当時、「新宿」という呼び名はまだまだマルキュー並みの「通称としての略称」として認識されていたんではないかなという推測。その10年後の明治22年の合併時ですらまだ「内藤新宿町」という呼び名を使っていたくらいだから。そして「植物御苑」という施設の存在。これが他所にも同じ「植物御苑」があるなら、区別するためにアタマに地名をつけるところでしょうが(前身の内藤新宿試験場みたいに)、どうやら当時そういう施設はなかった模様。だったら、「植物御苑」だけで正式名称になり得たんでないかなーと。

そして「植物御苑」が元になって「新宿御苑」が誕生するのが1906年(明治39年)。環境省のサイトに、「新宿御苑という名前になってから2006年(平成18年)で100周年を迎えた」という旨の記述があるので、こちらの「新宿」という名称はどうやらガチの模様です。単に「御苑」と呼ぶなら、京都にも御苑はあるから区別する必要がありますしね。行政区画の名称として「新宿」が二文字で初登場したのが1920年(大正9年)ですから、それより14年も前に、国の公的機関の一部として「新宿」の地名は使われていたワケです。少なくとも通称で、遅くとも1890年(明治23年)には「新宿駅」が登場していて、それからおよそ16年経って「新宿御苑」誕生、もうこの頃には地名としての二文字新宿がすっかり定着していたことの証でしょう。

というコトで、「内藤新宿」を「新宿」とアダ名で呼ぶのは江戸時代からあったけど、そのアダ名を公的な住所表記になるほどに育て上げちゃったのは新宿駅の存在が大きかったんでないかな、という考察でした。

「内藤」じゃなくて「新宿」

ちょっと話を戻してしまうようですが、すごくそもそもな話で、「内藤新宿」を「内藤」でなく「新宿」と略したのはなんでよ、という点について。「内藤ニュータウン」を縮めるなら「ニュータウン」じゃなくて「内藤」って呼ぶ方が自然じゃね? という話。

これについて、先に書いたとおり、既に江戸時代から江戸の人々は内藤新宿を「内藤」でなく「新宿」と略していたらしいですね。「内藤」がお大名の家名だったからということもあるのかなぁ、と考えてみましたが、それをいうなら「青山」の地名はどうなるという話もある(青山も大名の家名が元。)。なのでさらに理由を考えてみると、江戸四宿と呼ばれた四つの宿場の中で内藤新宿が唯一「新宿」とついています。宿場の歴史は詳しく調べていないのですが、規模が大きくて著名な「新宿」が「内藤新宿」しかなかったとしたら、「新宿といえば内藤新宿」となってもおかしくないでしょうね。

「内藤」か、「新宿」か。コレは、明治以降、地名をつける際にもきっと大きな考慮点であっただろうなと思います。だって、町名として「内藤新宿」という四文字が残っている程度ならともかく、帝都・東京の大きな区分のひとつに「内藤」という一お大名の名前を残すとなれば、良かれ悪しかれいろんな意見が出ちゃうでしょうからね。東京の地名でお大名の家名が残っているのは、この内藤家の新宿区内藤町と、前述の港区の青山だけだそうですよ。ちなみに内藤家は存続していて、ご当主は今も内藤町にお住まいだそうです。

都合よく「新宿」という呼び名が定着していたので町名になり、果ては23区の1つにまでなっちゃいました。「新宿区」という区名になるまで、というか、新宿区が新宿区になるまでの話もいろいろおもしろいんですが、キリがないのでこの辺にしておきます。区名の候補人気ナンバーワンは「戸山区」だった、とかね。この話の大元になった新宿スポセンがある「戸山公園」の「戸山」。けどやっぱり新宿駅がもう有名になってたから「新宿区」にしたんだとさ。あと葛飾区新宿(にいじゅく)の話とか。ハイもうココまで。

終わりに

スポセン前のフライング桜からえらく壮大な話になってしまいました。個人的には今回の記事を書くにあたって、Webだけどいろいろ調べて改めて新宿の歴史を学べておもしろかったです。

大元になったタカトオコヒガン、スポセン前だけじゃなく、新宿駅東南口広場(フラッグスビルの前)でも見られます。お立ち寄りの際はご覧になってみてはー。

フラッグス前。
「タカトオコヒガンザクラ」の標識も。

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東京生まれ、東京育ち。 いまもヌシ様、ししまると一緒に都内のマンションで2人と1匹暮らし。 炊事と機械設備担当。

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